お久しぶりです、加藤(仮名)です。
皆様もご存知の通り、令和6年1月1日に、能登半島で大地震が発生しました。
新年、お正月という休暇中に襲った大地震で、今も安否不明の方がたくさんおられます。
1月11日のニュースでは、亡くなった方は213名と、多くの方が犠牲となっています。
当社、従業員一同、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
そして、亡くなられた方の御冥福をお祈りしております。
私事ですが、私、加藤(仮名)は、年末年始に海外に住む友人の家を訪問していました。
年を越して間もなく、能登半島地震のニュース、それに続き羽田空港の事故と、
日本での大災害と大事故を知り、驚きました。
帰国後、知人に地震について話すと、偶然にもその知人は石川で既に団体登録を行い、
現地の方と連絡を取って救援物資を届けたり、炊き出しをしたりと動き始めている団体でした。
私は調べる限りの情報で、彼らが開拓したエリアは安全であることを確認し、
すぐに救援物資の配送を手伝うこととしました。
※こちらの記事は、被災地でのボランティアを推奨・斡旋するものではありません。
訪問を検討の際は、県や自治体の広報を確認し、現地の募集状況を確認してください。
訪問当時は、個人のボランティアは募集しておりませんでした。
主に燃料類を積んで、川崎から富山県と石川県の県境へと向かいました。
より多くの物資を運ぶため、運転は一人でした。
探偵で、長時間運転は鍛えられていますが(皆様が思う3倍の時間運転する職業です)、今回の運転はなかなか過酷でした。
慣れない雪道の運転というのもあり、できるだけ安全に向かいました。
そして深夜に、およそ片道8時間をかけて現地に到着し、その日は休みました。
翌朝、私は知人と共に「穴水町」というエリアに物資を配給しました。
最大の被害を受けたエリアでないと言っても、道路が陥没する箇所もあり、そこまでの状況はこれほどのものです。
海沿いに建つ家は、津波により家はペシャンと潰れ、とても人が住める状態ではなく、避難を余儀なくされています。
私が滞在して現地を回ったのはたった1日でした。
たった1日でしたが、泣きながら再会する人や、被災者であるにも関わらず奮闘する現地の方をこの目で見ました。
彼らは、被災から1周間少し経ったその日に、「ようやく今日から2食になった」と言っていました。
私たちが想像する以上に現地での生活は過酷です。
県外に脱出した方も多い中、残された人たちだけで生活を立て直すというのは本当に困難なことです。
また、災害で直接被害に合うだけでなく、被災生活では「災害関連死」という、二次被害も発生します。
(内閣府防災情報より引用)
私も実際に、現地の方から、同日に高齢の女性の方が避難生活による疲労が起因する持病の悪化で亡くなったと聞きました。
ただでさえ家族や友人の喪失や安否の心配に憔悴しながら、自身の生活も過酷であるという大変な現状を、再認識しました。
私は、2月頃、再訪問を考えています。
まだ多くの助けすら入れない現状、どれほど人が足りないのかはまだ分かりません。
孤立世帯があるため、救難活動もまだ続いていると思います。
現地で1人でも多くの人が助かり、一刻も早く同じ生活に戻れるよう、微力でもできることを考えて参ります。
2024.01.14 加藤(仮名)